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東京高等裁判所 昭和40年(ネ)2429号 判決 1971年12月22日

控訴人 日本電信電話公社

訴訟代理人 古館清吾 外六名

被控訴人 高木清丘衛

主文

原判決中控訴人敗訴部分を取消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、主文と同旨の判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上および法律上の陳述ならびに証拠の関係は、次に付加訂正するほか、原判決の事実摘示と同じであるから、これを引用する。

(控訴代理人の陳述)

一、仮に渡辺営繕課長の発言内容に虚偽の事実があり、そのために被控訴人に要素の錯誤があつたとしても、被控訴人には重大な過失があるからこれが無効を主張しえない。すなわち、本件土地の売買の交渉のため、渡辺課長が折衝をした後、契約担当官である浦島仙台逓信局長が昭和二一年一〇月一二日わざわざ被控訴人方に訪れ、被控訴人と直接面接して折衝した。被控訴人としては、浦島局長が右売買契約の責任者であることを十分承知していたであろうから、同局長の話と渡辺課長との話にくい違いがあつたり、あるいはまた被控訴人が渡辺課長によつて誤信させられている事柄について浦島局長がまつたく触れなかつたのであるならば、被控訴人としては当然これらの点について確認するべきである。被控訴人は商人であり、大事な財産を処分する機会に、自宅で契約責任者である浦島局長と相対しているのであるから、右の点を確かめるなどということは、被控訴人にとつて一挙手一投足の労にすぎない。それにもかかわらず、これらについてなんら確認することをせず、本件売買契約を締結した以上、被控訴人には重大な過失があるものというべきであるから、所論のような要素の錯誤があつても、これが無効を主張することは許されないものといわねばならない。

二、仮に本件売買契約が被控訴人の主張するとおり錯誤その他の事由により無効であるとしても、控訴人は昭和二七年八月一日、日本電信電話公社および同施行法の施行にともない、諸外国から本件土地のうち第二土地を除いた残余の土地を他の財産とともに包括的に承継したものであるが、控訴人は当時、国から右土地の所有権を適法に取得したものと信じ、しかもそのように信ずるにつき過失がないのはもとより、電報局敷地として平穏・公然に占有を継続してきたのであるから、同三七年七月三一日の経過とともに、一〇年間の取得時効によつてこれが所有権を取得するにいたつたのである(最判昭和三七年五月一八日民集一六巻五号一〇七四頁参照)。

(被控訴代理人の陳述)

第一控訴人の当審における新たな主張(前記、控訴代理人の陳述第一、二項)は、故意または重大な過失により時機に後れて提出した防禦方法であつて、そのため訴訟の完結を遅延せしめるものであるから、却下されるべきである。

本件訴訟は、昭和四〇年一一月一二日控訴の提起がなされて以来、証拠調、弁論期日が重ねられ、同四三年七月二九日の口頭弁論期日にはすでに控訴審での一切の審理を終えたものとみられる状態にあつたところ、裁判所から和解勧告があり、その後数回にわたつて和解が試みられたが、妥結しなかつたため、同四四年五月二九日和解が打切りとなり、控訴審での弁論終結をまつ段階になつた。しかるに、控訴人は昭和四四年九月一七日の口頭弁論期日の一週間前の同年同月一〇付の準備書面に前記当審における新たな主張を記載し、これを右九月一七日の口頭弁論期日において陳述したのである。被控訴人としては、もし右の主張が許されるとすれば、被控訴人には控訴人主張のごとき錯誤についての重大な過失がまつたくなかつたこと、控訴人が取得時効の要件として主張する控訴人の善意が認められるべきでないこと、控訴人が設立されたとき所有の意思をもつて占有したものでないことを立証する必要があり、控訴人としてはその占有が無過失であつたことにつき新たな立証を必要とすることになる。これらの点を併せ考えるときは、控訴人の前記主張は、故意または重大な過失により時期に後れて提出した防禦方法であつて、本件訴訟の完結を遅延せしめることが明らかであるから、民事訴訟法第一三九条に則り、これを却下すべき旨を申立てる。

第二仮に右申立が理由ないものとすれば、被控訴人は前記主張に対し、次のとおり答弁する。

一、被控訴人の錯誤につき重大な過失があつたとの主張について

(1)  控訴人は、被控訴人が渡辺課長によつて誤信させられている事柄を、わざわざ被控訴人方に訪れた浦島局長に確認しなかつたのは、被控訴人の重大な過失である、という。

しかしながら、本件土地が日本政府の施設のために接収できないものであつたことを被控訴人が知つたのは、昭和三八年一月本件訴訟を第一審に提起した後に訴訟代理人から教示された時である。また本件土地が渡辺課長の約束に反して被控訴人に返還されないのを知つたのは、東北電気通信局長から昭和三七年一〇月一日付の回答書(甲第一三号証の一、二)を送付され、同局長か本件土地の買収された経緯を告げ、電信局跡地と電話局隣地との交換あつ旋を依頼したという仙台市長島野武からなんらかの申越しがあるものと考え、諸般の準備を整えて待機していたところ、被控訴人の長男清一から、同人がロータリー・クラブの席上で、読売新聞社東北総局長より同社が旧仙台電信局跡地を買い受けたと言明していることを聞知したという昭和三七年の暮のことである。被控訴人は渡辺課長の言明が真実であると固く信じていたればこそ、酒造家として生命線ともいうべき名水の井戸があり、父祖伝来のかけ替えのない本拠地を、さらに巨大な損失をもたらすことを知りながら、その交付金額を逓信局の後日においての一方的決定に委せて売却を承諾したのである。浦島局長が被挫訴人方を訪れたのは、本件土地売却の話が決つてから二〇日位後の昭和三七年一〇月一二日であつて、同局長は売却承諾の礼のために訪れたのであり、僅か数分間ほど面談しただけである。このような短時間のうちに渡辺課長の言明を固く信じて疑わない被控訴人が、浦島局長に対し渡辺課長の言明したことが真実であるかどうかを確かめなかつたのはきわめて自然であり、これを重大な過失というのは当らない。

(2)  控訴人は、被控訴人において逓信局長が契約担当官として本件売買契約の責任者であることを十分承知していたはずであるというが、控訴人がいう契約担当官とは、会計事務処理の形式を定めた逓信部内だけの訓令によつて生じたものにすぎないのであつて、逓信部外の一民間にすぎない被控訴人としては、逓信部内の通信事業会計規程で逓信局長が契約担当官として契約するものであるなどということは知らず、「仙台逓信局営繕課長渡辺日露史」という名刺を手交し、本件土地買収につき仙台逓信局を代表するものであるという態度をもつて被控訴人と交渉した渡辺課長を土地買収に関する責件者と考えたのはきわめて自然のことであつた。したがつて、渡辺課長の言明したことについて被控訴人が重ねて浦島局長にその真否を尋ね確認しなかつたのは当然のことであり、その点に過失ありとされるべきいわれはない。

二、取得時効の完成により控訴人が第一土地の所有権を取得したことの主張について

(1)  公物は公共団体等の行政主体によつて公共の福利のため、または特定の目的のため直接公の用に供されている有体物であるが、その存在目的を達成するために何時でもその設置主体が必要とする措置、処理をなしうるためにその存在を害するような私権の成立ならびに行使を制限排除するという点において公権的支配に服しており、公用が廃止されるまでの間はその公物としての性質と相容れない私法の適用、ことに私法上の所有権的機能を果たす民法上の取得時効に関する規定の適用が排除される。

これを本件土地についてみるに、右土地は昭和二二年五月一七日諸外国(逓信省)によつて公衆に電気通信施設として利用させるという公共の目的のために設置提供され、旧仙台電信局の敷地とされたものであるから、この時から公物となつたものであつて、電信局としての用途が廃止されるまで民法の取得時効の規定の適用が排除されるのである。そして、控訴人の主張するところは、昭和二七年八月一日、日本電信電話公社法(以下、公社法という)および同施行法が施行され、同日をもつて国の行政機関である電気通信省(以下、電通省という)が公社となつたのであるから、公物たる旧仙台電信局も公物でなくなり、私法の適用を受けることとなり、したがつてその敷地となつている本件土地についても民法の取得時効に関する規定の適用があるというにあるようにみられる。なるほど昭和二七年八月一日公社法、同施行法の施行によつて、国の行政機関たる電通省が公社となつたとはいえ、変つたのはこの点だけであつて、公社の地方機関である地方電気通信局(以下、電通局という)や、地方電気通信管理所および現業機関の電信局は、電通省が国家組織法によつて設置した時の地方機関の電通局、電気通信管理所、電信局そのままであり、またこれらの地方機関の職務権限も電通省が国家組織法にもとづいて賦与したものそのままであるばかりでなく、電通省の職員も公社法の施行と同時にそのまま当然公社の職員となつたものであつて(公社法施行法第二条および<証拠省略>参照)、その他においても不可避の最少限において形式的な変更を加えただけにとどまり、その実質は従来国の機関である電通省がこの事業を経営してきた時と何ひとつ変るところがなかつたのである。

もとより旧仙台電信局も公の電気通信施設として、昭和二二年五月一七日電通省によつて設置されて以来、昭和三七年仙台市東二番丁の本建築の電信局のできるまで、同市内唯一の電信局として公衆の利用に提供されてきたものである<証拠省略>。ただ電通省を前記のとおり公社法で公社という公共企業体の公法人としたのは、法人格の国の全部ではなく、その一部の電通省という行政機関の所掌する業務部門のみ国から切りはなして経営させるため、これに法主体として法人格をもたせねばならないという法技術上の必要にもとづいたものであつて、公社という公共企業体の公法人とはしたが、叙上のとおり実質的には公社は電通省のそれとはなんら相違がないので、公社法、同施行法、日本電信電話関係法、同準用令(昭和二七年七月二一日政令第二八七号)、日本電信電話公社法施行令(昭和二七年七月三一日政令第二八八号)などの法令で公社を国の行政機関とみなし、これを行政機関と同列に取扱うこととして、公社を国が電通省として経営していたときと同様の法令適用上の地位においたものである。しかるに、電通省の時は公物であつた本件土地が、公社に所属したから公物でなくなつたとしても、あたかも商法上の会社の組織変更と同様の法理で同一体の関係にあり、この時までの電通省の時と変りなく、現実に公衆の通信施設として公の用に供されていた仙台電信局の敷地たる本件土地については、私人の任意処分を許している私法(民法)の取得時効の適用は排斥されねばならない。

(2)  仮に取得時効の適用があるとしても、控訴人が民法第一八七条により自己の占有のみを主張することは許されない。行政機関の組織替、名称替ともいうべき、電通省を公社としたことにより、国民大衆の電気通信施設を利用させるという公共の目的のために、電通省の通信施設関係として電気通信事業特別会計に属していた有形無形のすべて、電通省、公社しいう当事者の選択放棄とか拒否などの意思介入をいつさい許さず、当然の措置として公社に移行帰属させた。そして、右電気通信事業特別会計に属して現実に公衆の利用に供せられていた旧仙台電信局々舎の敷地であつた本件土地を、公社が設立され、公仕施行法に「承継」という文言が使用されていたからといつて、直ちに当事者の自由処分を認め、かつ、事実上完全な権利の変更である民法上の売買などのごとき事象の発生を前提とする民法第一八七条の規定の適用があり、公社の設立により占有者の交替があり、公社、東北電通局が公社設立の日である昭和二七年八月一日から右規定により新たなる占有を承継したものとし、民法第一六二条所定の取得時効の起算が開始されるものと解することはできない。

(3)  行政機関においては、その機関構成者の地位にある特定の自然人がその職務権限にもとづいてした意思表示ないし行為がその所属行政機関の意思表示ないし行為として、法令の定めるところによつて当該行政機関に帰属する。したがつて、本件不動産の占有にあたり善意であつたか悪意であつたかなども、これと同じく行政機関を構成している部課の責任者の地位にある特定の自然人の意思、認識、態様によつて定められるべきである。これを本件についてみるに、渡辺営繕課長のしたことは逓信局がしたことになり、善意悪意は同人の認識によつて定められる。同人が占有のはじめに悪意であつたことは明らかであり、公社はその悪意の占有を承継したものである。しかも本件不動産関係の管掌を職務権限とした仙台逓信局営繕課の後身である東北電通局築建部も、昭和二四年六月一日逓信省が電通省になつたときから、同二七年八月一日公社となつた後まで一貫してそのままの機構権限のものであつて、その間になんら変更がないばかりでなく、同局建築部の部長であつた訴外渋谷二郎は電通省が発足した昭和二四年六月から同省が公社になつた後の同三〇年三月末まで一貫してその地位にあつた。右渋谷二郎は本件売買契約当時、仙台逓信局営繕課資材係長という幹部の地位にあつたばかりでなく、特命を受けて渡辺営繕課長を補佐し本件土地買収関係に全面的に関与し、右土地売買に関する同課長の行為や交渉のすべてに関係しており、同課長の悪意であつたことなど一切を知悉していたものであるから、仙台逓信局の後身である東北電通局が善意であるとは到底いえないところである。

取得時効により所有権を取得するには、所有の意思をもつて占有することを要件とするものであるが、電通省が公社にたつた際の東北電通局の組織、機構、権限は従前のそれと何ひとつ変らなかつたことは前述したとおりであり、そこには電通省が公社になつたからといつて、これまでの占有に対し、東北電通局がこの時から新たに所有の意思をもつて占有を始めたものだと認めうる事象が片鱗も存在していなかつたのであるから、この時から所有の意思をもつて占有をはじめたものだと認めるに由ないものといわねばならない。ただ公知のとおり当時の米駐留車の命により昭和二七年八月一日電通省が公社になつたので、逓信省が電通省になつた時と同じく、電通省のために占有していた東北電通局が法理上このときから公社のために占有することになつたにすぎず、占有そのものの承継があつたとは云いえても、公社になつたとき所有の意思をもつ新たな占有をはじめたものだということはできない。

これを要するに、いずれにしても、昭和二七年八月一日電通省が公社となり、公社がその時から所有の意思をもつて占有をはじめ、善意かつ無過失であつたとは認められない。

(4)  仮に以上の主張が認められないとしても、控訴人は被控訴人の権利を承認したため時効が中断し、未だ取得時効が完成していない。被控訴人は本件訴訟を第一審裁判所に提起する約一一か月前の昭和三七年三月八日、知人の参議院議員前田佳都男を通じ控訴人に対して書面<証拠省略>を提出し、昭和二一年に本件土地を米駐留車の命令で緊急の要務である通信機関の整備をせねばならぬが、他に適当な土地がないから是非ともこれを提供するようにと強く云われ、かつ、当時不可抗力の至上命令であつた駐留車の令令にもとづくものだからと高圧をかけられ、営業の本拠地であり父祖伝承の地で手放せぬ事情にある土地ではあつたが、前記のような当時の情勢から巳むを得ず当方から条件がましいこと一切を付せず、逓信局のいうがままの金額で提供したものであることを述べ、そして電信局の本建築が逓信病院の隣地に建築中でそこへの移転が確定しており、本件土地の不要になることが明らかであるから、提供したときの事情を考え格安で返還されたい旨を申出、ついで同年七月三一日にまた右前田参議院議員を通し同日付書翰<証拠省略>をもつて、当時の公社首脳部の理解に資するため、前記書面で述べたことをふえんし、駐留車の命令即接収という圧力をかけられて拒否し切れず、やむなく売却を承諾せざるを得なかつた事情と経過を順序を追つて具体的に述べ、その時本建築になれば不要になるから返すよう考慮するとの渡辺課長の云つた時期が到来し、本件土地の空くことが判明したのだから、是非とも本件土地を返還されたいと重ねて申し出たところ、昭和三七年一〇月一〇日付で当時の東北電通局長水尾安彦より被控訴人宛の書面<証拠省略>で、「かねて前田氏を通してお申越の東二番丁所在の仙台電報局跡地の譲渡方の件については、南町にある仙台電話局を隣地に拡張する必要があるので、この土地を取得するために電報局跡地をその代替地として一括充当することにした。本件土地は市の中心地であるから、すべて仙台市長のあつ旋方を依頼してあり、その際貴殿から御申出のことも詳さに伝えてあるから了知されたい」旨の回答をしてきたのである。被控訴人は仙台市長から右回答のとおり今に何事かの申し入れがある一ものと思い、電話局隣地買収資金の調達の準備をして待機していたところ、読売新聞社が電報局跡地を買つたことを聞知したので、その直後の昭和三八年一月三〇日本訴を提起したのである。

ところで、民法第一四七条第三号に定める時効中断事由たる「承認」とは、時効の利益を受くべき当事者が時効によつて権利を失うべき者に対しその権利が存在していることを認めておれば十分であるから控訴人が前記昭和三七年一〇月一日付の書面による回答を被控訴人に交付したことは右にいわゆる「承認」にあたるべきである。したがつて、昭和二七年八月一日から一〇年の取得時効の場合には、右回答より完成した時効の利益を放棄したものとして法律効果を生じ、また二〇年の取得時効の場合には、右回答により時効中断の法律効果を生ずるにいたつたものというべきである。

(5)  仮に以上の主張がすべて認められず、理論上民法第一六二条第二項の適用があるとしても、控訴人が本件土地につき時効による所有権取得の主張をすることは信義則上許されない。

被控訴人は昭和二一年九月本件土地を買収された時、仙台逓信局の渡辺営繕課長から、どうしても売却に応じなければ駐留車によつて接収することになると不能虚構の事実をかさして強圧を加えられ売却を承諾したが、そのさい同課長において不要になつたら返還すると言明したのを信じ、また同趣旨の浦島仙台逓信局長の使者または代理人として来訪した岡崎仙台市長の言を信じ、一日千秋の思いで旧伯台電信局が本建築となるのを待ち、それまで公社に対して返還請求を差しひかえていたのである。それ故にこそ仙台電信局が本建築の庁舎に移転し、旧電信局舎の使用が廃止されることを確知するや、直らに逓信省の後身である控訴人公社に対し前記のように書面をもつて、かねて約束の不要の時が到来したものとして返還を求めたのである。そして、公仕より前記昭和三七年一〇月一日付回答書の交付を受けたので、渡辺営繕課長や逓信局長の使者代理人であつた岡崎仙台市長がかねて被控訴人に約束していた不要時返還の実行に踏み出したものと信じ、右回答書にあるとおり公社または仙台市長より具体的申入れのあつた時にはいつでも善処できるよう本件土地の返還を受けるため交換地として提供する電話局隣地の買受資金その他公社の要求に添えるようた資金調達の準備をしていたのである。一方控訴人公社からあつ旋の依頼を受けた仙台市の小岩助役は、本件土地の買受希望者について市側としても調べたいから希望者にその旨伝えてほしい旨控訴人に申し入れた。しかるに、控訴人はこれを被控訴人に知らせず、他方控訴人が交換の対象地としていた電話局隣地は、前記昭和三七年一〇月一日付回答書が出るより前すでに読売新聞社が同社の東北総局長大多田唯雄名義で売買の予約をし、間もなく所有権移転請求権保全の仮登記を経由していることは登記簿上物らかである。すなわち、控訴人は外形的には公平に誰でも仙台電話局の隣地を入手した者となら電報局跡地を一括して交換するように装いながら、実際は前記回答書を被控訴人に交付する前に読売新聞社との間に電報局跡地全部を同新聞社にやる約束をしていたのである。控訴人は電話局隣地を読売新聞社以外の者が入手することを不可能な状態にしておきながら、被控訴人に対しては、被控訴人が右電話局隣地を入手すればこれと本件電報局跡地との交換が可能であるかのような表現を用いて前記回答をなし、被控訴人を欺いていたものであり、控訴人の本件土地の買収が錯誤等により無効であることが認められる場合には時効によつて本件土地所有権を取得したと主張するがごときは、国家機関と同視される控訴人公社として信義則上許されないところというべきである。

(証拠の関係)<省略>

理由

一、被控訴人が昭和二二年一月一七日訴外国(契約担当官史、逓信省・仙台逓信局長浦島喜久衛)に対して、本件土地を代金二五万六、〇一五円(うち第一土地の代金は二〇万五、〇一九円、第二土地の代金は五万〇、九九六円)で、売り波し、国が右土地につき仙台法務局昭利二二年五月一六日受付第二、八七三号をもつて、逓信省のためにその旨の所有権移転登記を了したこと、国が昭和二三年月一一日第二土地と訴外斎藤真所有の仙台市東三番丁一四八番の二の土地とを交換し、斎藤真が第二土地につき仙台法務局昭和二三年一二月一六日受付第八、五九二号をもつて、右交換を原因とする訴外斎藤蔵之助のための所有権移転登記を了したこと、控訴人公社が行政改革によつて逓信省、その後電気通信省の所管事項、地位を承継し、独立の法主体性を有するものであり、第一土地のうち(1) 、(2) 、(3) の土地につき仙台法務局昭和二八年二月一六日受付第九五五号をもつて、(4) の土地につき向法務局同日受付第九五六号をもつて右承継を原因としてそれぞれ控訴人公社のため所有権移転登記がなされたことは、いずれも当事者間に争いがない。

右の争いのない事実に、成立の争いのない<証拠省略>を総合すると、次の事実が認められる。

逓信院(後に逓信省と改称)は、昭和二一年度の電信電話設備計画として、進駐車の必須通信施設の急速設備と一般公衆のため罹災通信施設の復旧を重点項目に策定し、その実現に努力していた。ところで、仙台逓信局管内の仙台郵便局は、さきに昭和二〇年七月二〇日の戦災によつて局舎を焼失したため、仙台市内の東北学院専門部地下室に移り同所で業務を行なつていたが、同二一年二一月同郵便局電信課が仙台電信局に昇格し、次いで翌三月二三日ごろ同局は一部修理復旧した仙台電話局の局舎一隅に移転し、きわめて狭隘な場所で執務していた。それで仙台逓信局では、昭和二一年度予算で前記一般公衆のための罹災通信施設復旧計画の一環として、仙台電話局の独立庁舎を新築する方針を立て、逓信院の同意を得、同年四月ごろよりその準備に取りかかり、まず右局舎の敷地として、昭和一四年ごろ仙台電話局々舎敷地として買収所有していた仙台市東二番丁一一〇番、一一一番の一、一一二番の一、二(合計一、一二四坪五合八勺)がまだ空地のままの状態に放置してあつたので、これを転用することに決め、仙台逓信局関係の国有財産および営繕を所管する同局総務部営繕課で、同課長渡辺日露史が中心となつて延坪八四〇坪程度の局舎新営工事の実現に着手した。しかも当時仙台に駐留の軍政部も通信施設の復旧に関心をもつていて、右準備の進行中たまたま駐留車の電信電話調査員が来訪し、仙台電信局の前記のごとき執務状況を視察し、局舎新築など執務環境の改善について強く勧告するというようなこともあつたので、とりわけ右局舎の新築完成を昭和二一会計年度の事業として実現すべく、その計画を急速に推進することとなつた。

しかるところ、昭和二一年夏ごろにいたり、その前年末に閣議決定された「戦災復興計画の基本方針」にもとづき、仙台市が企画立案中の復興都市計両が次第に具体化し、同市東二番丁の道路拡幅や新幹線・仙台駅川内線(青葉通り)の新設などを含む仙台市復興都市計画に関する新聞報道があつたりして、電信局々舎建設敷地に予定していた前記土地の一部が道路敷として削られるのではないかと考えられるにいたつたため、渡辺営繕課長の命により同課資材係長渋谷二郎が仙台市役所の復興都市計画実施当局(同市復興局建設部整理課)に出向き調査したところ、最終案は未確定であつたが(同年八月都市計画街路ならびに公園緑地の最終案が完成し、同年一一月一一日その決定があり、また都市区画整理施行区域は同年五月九日に決定し、その一部が翌二二年一〇月二一日認可された)、電信局新築敷地予定地の七割程度が前記道路敷地に編入されることに予定されており、そのままの状態では敷地狭少のため電信局の新築がとうてい不可能であることが判明した。さらにその後の調査折衝により道路敷となる土地については、その他の土地と同様に換地を与えることをしない方針であるということも判つたので、右当局者の紹介によつて復興都市計画実施の最高責任者であつて計画貫徹に強い情熱をもつてあたつていた仙台市長岡崎栄松に面接し、前記のような逓信局側の事情を述べ協力方を懇請した。その結果、市長側から次のような示唆がなされた。すなわち、電信局建設予定地のうち道路敷とならずに残る部分の東側隣接地の大部分は被控訴人の所有地であるから、被控訴人に話してこれを買取つてはどうか、なお隣接地の一部は訴外斎藤蔵之助の所有地であるが、同人の所有する一画の土地の大部分が道路敷にとられることになつており、残地が小さくなる関係上同人が右の隣接地を売渡すことは期待できないので、被控訴人から買取る土地の一部と交換し、局舎建設用地の形をととのえるのが上策であると。なお、その際岡崎市長自身も、自分はかねてより被控訴人とは面識-もあるので、場合によつては自分も被控訴人に会つて仲介あつ旋の労をとつてもよいと述べた。

渋谷係長は帰局し、以上の次第を渡辺課長に報告したので、同課長も復興都市計画実施当局側の前記示唆にもとづき、被控訴人との間では本件土地(新伝馬町五二番ないし五四番の土地については新伝馬町に面した部分を除き、局舎建設用地の残地の東側に隣接する部分、東三番丁の土地については前記斎藤との交換用土地を含め一四五番、一四六番の土地)の売買、右斎藤との間では土地の交換(斎藤に交換用に提供を求める土地として東三番丁一四七番の一、二の各一部を予定していたようである)という線で交渉をすすめることにした。被控訴人に対する交渉は、はじめ昭和二一年九月上旬ごろ、仙台市南染師町の被控訴人方で行なわれ、逓信局では前記の事情を述べ(ただし斎藤所有地との交換を予定しているとの点を除く)売渡方を承諾してもらいたい旨を要請したが、被控訴人は売渡しを求められている土地は親の代から住み家業である清酒の醸造販売業に使用してきた土地であつて、今後も営業用に保有しなければ,ならないとの理由で右申出を拒絶した。次いで数日後に渡辺課長は、当時逓信局仮庁舎に使用していた仙台市七番丁所在のもと片倉製糸工場の建物に被控訴人を呼び、再び売度しの承諾を求めたが、被控訴人の承諾を得るにいたらなかつた。そこで、逓信局制では岡崎市長にあつ旋を懇請することになり、同市長も自分の側から本件土地の買受け方を提言したことなど前記のような経緯もあり、あつ旋の労をとるため、同月中旬ごろ被控訴人に訪ね、逓信局にその要望する土を売渡すことを承諾してやつてほしい旨を述べて話しあつた結果、当初売渡しを拒んでいた被控訴人も岡崎市長自身が直接来訪しあつ旋したことにより、ようやくその態度を変え、要望の線にそうようにしようということになつた。

当時、仙台逓信局営繕課では、土地買入れの際には官公署等の土地評価意見を徴することとしており、本件土地の買入れについても右と同じくその評価意見の照会をしたのに対し昭和二一年九月二八日付で回答のえられた仙台市長および仙台税務署長の評価意見に岡崎市長の個人的助言をも参考として買入単価を検討し、第一土地(新伝馬町の分)を坪あたり八〇〇円、第二土地(東三の分番丁)を坪あたり五五〇円とし、これを被控訴人側に提示したが、右提示による代金額による売渡に同意する旨の最終的承諾をえるにいたらなかつた。他方、逓信局営繕課としては、前記のとおり昭和二一年度予算で電信局の建築工事を完成するためには早急に本件土地を買上げ建築工事に着手せねばたらぬという事情にあつたため、渡辺課長は浦島逓信局長に対して、最終的承諾をえるため直接被控訴人に面接し契約内容を確定してもらいたい旨進言した。そこで浦島局長は同年一〇月一二日ごろ被控訴人方に訪れ、被控訴人に対し同人が本件土地を逓信局に売渡す気になつたことに対し謝意を述べるとともに買入価格についても前記の坪単価によることにして売渡しの最終的承諾をえた。そしてその翌日ごろ、営繕課係員が売買土地および代金額(新伝馬町の土地については各一筆の一部を買受けることになる関係上、営繕課係員があらかじめ控訴人側の最終的承諾をえた場合のために、市の係員の指示を受けて、買受予定部分の面積を測つてあつたので、これに坪単価を乗じた代金額)を記載した売渡承託書を被控訴人方に持参し、被控訴人の名下にその捺印をえ、翌二二年一月一七日土地買収契約書が取交され、同年五月一六日冒頭に記載のとおりの所有権移転登記が経由されたのである。

一方、前記斎藤真との土地交換の交渉は、それが開始された時期は明確でないが、同人の父蔵之助が前記局舎建設予定地の東側一部に隣接する仙台市東三番丁一四七番の一、二および同一四八番の各土地の所有名義人であつたため、真の代理人たる蔵之助との間で逓信局営繕課の係員が交渉をすすめ、昭和二一年一〇月中にその承諾をえたが、これにもとづく土地交換契約書の取交しは、おくれて昭和二三年一一月一日付で行なわれ、同年一二月一六日所有権移転登記が経由された(交換対象地が契約書では一四八番の二と表示され、同土地について移転登記が経由されていて、承諾書における一四七番の一、二という表示と相違しているが、現地自体については変更がなかつたものとみられる)。結局、国と被控訴人との間で売買契約のなされた土地のうち東三番丁一四五番全部と一四六番の一部(一四六番の一として分筆された地域)について、斎藤蔵之助所有名義の東三番丁一四八番の二と交換がなされたわけである。

かようにして国は、従前の電話局の敷地に前記のようにして買収および交換により取得した土地を加えたものを敷地として、昭和二二年三月旧電信局の局舎を建設し、その東側に無線通信用鉄塔等を設置したのであるが、その後右鉄塔等の敷地が斎藤の方へ換地予定地として指定されることとなつたため、国はさらに斎藤と交渉して右の敷地(七一坪六合七勺)を買い受けることとし、昭和二六年四月二六日斎藤からその承諾を受け、同年五月一五日その売買契約書を取交し、昭和二九年九月二一日東三番丁一四八番の四として所有権移転登記を経由した。

本件土地の被控訴人と国との間の売買およびこれに関連する斎藤との土地交換および売買の経過の大要は以上のとおりである。

二、再売買の予約の主張について

被控訴人は、昭和二一年九月一〇日ごろ本件売買の交渉がなされた際、仙台逓信局総務部営繕課長渡辺日露史が、「本件土地は電信局の新築建物の敷地として使用するものであるが、右建物は戦災直後の応急措置としての仮建築であるから、将来別の場所に電信局を本建築し、本件土地が不要となれば優先的に返還する」と被控訴人に言明し、右の時期を不確定期限とする売買の予約が成立し、また同年九月一五日ごろ仙台逓信局長の依頼を受け同局長の使者としてきた仙台市長岡崎栄松が被控訴人に対して、「電信局は応急の建物だから、不要にたれば返すと逓信局が約束しているから、本件土地の売買を承諾してくれ」と申し入れた、と主張する、

渡辺営繕課長が本件土地につき被控訴人と売買の折衝をしたこと、および岡崎仙台市長が本件土地の売買に関して仲介あつ旋の労をとつたことは前に認定したとおりであり、<証拠省略>中には、右主張にそう供述部分があるが、これらの供述は後に説示するとおり、これをたやすく措信することができない。すなわち、

(イ)  原審における被控訴本人の供述(第一、二回)中に、本件土地が不要になつたら自分の方へ戻すことを約束してもらえるかと聞いたところ、約束はできないが、そういう場合には十分骨を折るといわれた旨の供述部分がある。

(ロ)  被控訴人の主張によると、渡辺課長が、「本件土地に建てる電信局は戦災直後の応急措置としての仮建築である」と、岡崎市長が「電信局は応急の建物だ」とそれぞれ言明したというのであるが、前に説示したとおり本件地上に建築された仙台電信局々舎は逓信院における昭和二一会計年度の罹災局舎の本復旧新営工事として計画されたものであり、<証拠省略>によると、昭和二二年三月新築にかかる右電信局の本館部分建築費は四八二万二、二三三円(坪あたり八、三六四円)であり、翌二三年七月新築にかかり現在なお建在中の東北電気通信局の本館部分建築費は一、〇六二万二、五一〇円(坪あたり八、四〇四円)であつて、建築用資材が極度に窮迫し、官庁建造物についても統制され割当配給を受けねばならなかつた当時としては、これ以上の資材をもつて建築することは期待できず、しかも右電信局新築当時同局舎を将来他の場所に新築するなどという計画がまつたくなかつたこと(仙台電信局は前記のとおり昭和二一年二月昇格独立したものであつて、従前から建築予定地が用意されていたのではなく、将来他に移転先を求めるというような計画もなかつた)ことが認められる。右の事実によると、本件地上に建築を予定された電信局々舎は、将来事情の変更を生じ、あるいは建物が老朽化したなどという事情によつて改築または他の場所に新築することがあるのは洛別、少なくとも当初かの比較的短期間の存立を予定した暫定的なものとし、いずれ将来他の場所に改めて、本建築をするなどという計画は存在しなかつたものといわざるを得ない。

(ハ)  <証拠省略>中には、被控訴人は本件売買の交渉に際し、極力売り渡すことを拒否したが、貸与なら差しつかえないと述べたとの供述部分があり、また<証拠省略>によると、逓信局が用地買収にあたり、地主が売渡しを承諾しない場合にはこれを借受けていた事例のあることが認められるが、もし渡辺課長において被控訴人主張のごとく「電信局が戦災直後の応急措置としての仮建築であり、将来別の場所に電信局を本建築する予定である」旨を述べ、岡崎市長が「電信局は応急の建物であつていずれは不要になる」旨述べたのが真実であり、またそのような予定での暫定的な建築であつたとすれば、被控訴人の前記貸与の申出により逓信局としてはその希望がみたされ、直ちにこれを承諾したはずであつて、本件土地の売買までする必要があつたとば認められない。

(ニ)  不動産の売買において、再売買の予約が付されるか否かは、その売買における要素をなすものであるから、通常契約締結に際し、その旨を契約書その他の書面に記載して明確にし、事情によつてはこれを登記ないし仮登記するのが通常であり、(民法第五八一条参照)、しかも<証拠省略>によると、仙台逓信局が昭和二三年一〇月ごろ公用施設敷地にあてるため、訴外石川栄ほか一名よりその所有地を買受けるにあたり、「当該施設廃止の場合は縁故払下を優先的にする」旨の特約を付した事例があつたことが認められるにもかかわらず、本件売買に際して、彼控訴人主張のごとき再売買の予約に関する特約が成立した旨を記載した書証が存在しない。

(ホ)  前示<証拠省略>によると、被控訴人の弟であつて、公私ともにその側近者として、とくに被控訴人の商取引その他の内容をそのときどき詳細に記録している高木善治郎のメモに本件取引の関係者の氏名、地番地積、代金とその内訳などが記載されているにもかかわらず、再売買の予約が成立した旨の記載が存在せず、また<証拠省略>によると、本件訴訟を提起するに先立ち被控訴人が参議院議員前田佳都男に宛て、控訴人公社に対し本件土地の売戻し方のあつ旋を依頼する旨の昭和三七年三月八日付、同年七月三一日付の書面各一通を差し出し、本件土地買収の経過を詳述しているが、そのなかには主張のごとき再売買の予約が成立したことを明示する記述はみられず、ただわずかに昭和三七年七月三一日付書面の中に、「電報局は木造建築故やがては本建築あるべしと思い、本建築になれば不要となるから返すよう考えるとの渡辺課長の話の、其の時期を待つていたのでした」なる記載のあることが認められるが、仮に渡辺課長が右に記載のごとき趣旨のことを述べたとしても、これをもつて再売買の予約を約定したものとまでは認めがたい。

(ヘ)  国が昭和二三年一一月一日、先に被控訴人より買受けた本件土地のうち第二土地と訴外斎藤真所有の仙台市東三番丁一四八番〇二の土地とを交換し、斎藤真が第二土地について仙台法務局昭和二三年一二月一六日受付第八、五九二号をもつて、右交換を原因とする訴外斎藤蔵之助のための所有権移転登記を了したことは前示のとおりであり、右第二土地のなかには酒造業を営むにつき必要とする極めて良質な水の出る井戸があるとして、被控訴人が本件土地の売渡しを拒絶する要因としたこと後述のとおりであるところ<証拠省略>によると、被控訴人は右交換がなされた後、間もなくその事実を知るにいたつたが、これに対し仙台逓信局などに対し特に抗議をしないまま徒過していたことが認められる。

以上認定の各事実ならびに前に第一項で認定した本件売買の経過をあわせ考えるときは、被控訴人の前記主張に符合する各証拠はいずれもたやすく措信できず、他に右の主張を認めるに足る証拠はない。

したがつて、被控訴人の再売買予約の主張は、これを採用できない。

三、要素の錯誤の主張について

(一)  被控訴人は、昭和二一年九月一〇日ごろ、本件売買の折衝が行なわれた際、渡辺営繕課長が、当初売買の申し入れを断わつていた被控訴人に対し、「通信機関の緊急整備は進駐軍の至上命令であり、もし被控訴人が本件土地の売却を拒絶すれば、進駐軍からの命令によつて接収せざるを得ない。そうすれば被控訴人にとつて不利益だからぜひ売買に応じてほしい」と述べ、暗に承諾しなければすぐにも悪い条件で進駐軍の命令により接収するかのような態度を示し、また岡崎仙台市長もそのころ被控訴人方にいたり「進駐軍の強い要望があるからまげて売買に応じてくれ」と懇願した。しかし、事実は、進駐軍の命令によつて日本政府のために接収することはできなかつたのであるが、被控訴人は当時進駐軍が民間住宅等を接収した事例を多数見聞しており、かつ政府機関の役人がそういうのであれば接収されることは間違いないものと思い、当初売却の意思を全然もつていなかつた本件土地を接収されるよりはと考え、代金額は時価の五分の一という被控訴人にとつて極めて不利な条件であるにもかかわらず、やむなく売却することを承諾した、と主張する。

(1)  渡辺課長が本件土地につき被控訴人と売買の折衝をしたこと、および岡崎市長が本件土地の売買に関して仲介のあつ旋の労をとつたこと、また右売買当時進駐軍の命令によつて日本政府のために接収ができなかつたこと、昭和二一年ごろ進駐軍筋より仙台電信局の新築を勧告されていたことは前に認定したとおりである。そして前示<証拠省略>中には、被控訴人の前記主張と同旨の記載および供述があるので、これらが信用するに価するか否かにつき次に判断する。

(2)  まず、<証拠省略>によれば、「昭和二一年九月五日ごろ渡辺課長が来訪し、本件土地売渡の交渉を受けたときその申出を断つたところ、その数日後に渡辺課長から呼ばれ、そのときも親の代から酒造業をやつてきた土地であり、営業に必要のため保有しなければならないからといつて売渡しを断つたが、渡辺課長は、どうしても売らないというのであれば自分たちは手を引くが、今度は進駐軍の方で接収することになるというし、同課長の話では仮建築だということなので、それならば本建築になるまで無償でお貸ししようといつたが、借りて建てるわけにはいかない、しかし本建築をすることになりこの敷地が不要になればお返しすることができるだろうという。そこで、これを約束してもらえるかと聞いたところ、約束はできないが、将来そういうことになつた場合には十分骨を折るといわれた。それでも、仮建築ならはいずれは返してもらえると考えたし、何よりも接収ということになれば、ほとんど無償でとられるものと考えていたので、仕方なしに売ることを承諾した。進駐軍が使う建物や土地でなければ接収できないとは知らなかつたし、渡辺課長が接収のことをいわなかつたならば自分としては売ることを承諾しなかつたのである。数日後岡崎市長が来たとき、『逓信省へ譲ることに話がきまつたそうで、たいへん結構だ』といわれ、自分も売ることに話をきめたことを話し、本建築になるときは返してもらえるようよろしくお願いするというと、市長は、そういうときには充分尽力するといつた」というのであり、原審および当審証人高木善治郎もこれとほぼ同趣旨(被控訴人が渡辺課長に呼ばれて交渉を受けた際の模様については被控訴人から前記のとおりと聞いている旨)の供述をしているのであり、また前示<証拠省略>によれば、被控訴人が昭和三七年七月前田佳都男に対し本件土地の被控訴人への売戻しのあつ旋を依頼した書面中、要求に応じなければ進駐軍に話して接収させるといわれ、本建築をするときは返すように考えるといわれたので売渡しを承諾したものである旨記載していることが認められる(被控訴人は原審における第二回本人尋問では、岡崎市長が来たとき、渡辺課長から進駐軍が接収する、といわれたので話をきめてきたと話したと述べている)。

しかし、(イ)前記のように、終戦後わが国において行なわれた土地建物等のいわゆる接収は、駐留軍の用に供するためにのみ行なわれたのであつて、わが国の政府ないしは官庁の用に供するためにこれを行なうことはできなかつたことは明らかである。本件の場合単に仙台電信局の局舎建設用地にあてるためいわゆる接収をすることのできないことは、被控訴人方でたとえそれを知らなかつたとしても、調査をすれば簡単にわかることであり、もし渡辺営繕課長が被控訴人の供述しているような虚言を用いて本件土地の売渡しを承諾させようとしたことが判明すれば、かえつて本件土地の買受けに重大な支障をきたし、渡辺課長自身にとつても重大な責任問題を生ずるに至ることはみやすいところである。渡辺課長がそのような危険をおかしてあえて右のような虚偽の真実を申し向けたというようなことは、他に措信するに足る裏づけがないかぎり、そのまま真実として受取ることに躊躇を感ぜざるをえないのである。

(ロ) もつとも、仙台電信局の局舎を建設するなど電信施設の復旧を実現することは、駐留軍の側から勧告の線にそうものであつたことは前記認定事実から知られることろである。また前示<証拠省略>によれば昭和二一年九月五日ごろ仙台逓信局長名義をもつて本省営繕剖長宛に、「先に新築認可を得た仙台電信局の敷地は種々の条件に制約され物色困難を極めていたがなお極力手配中のところ、先般マ司令部よりの電信電話設備調査員の来仙によつて急速に電信局舎新築を確約せざるを得ぬ状態となつたので、これ以上日時の遷延を許さず、己むを得ず、元電計局用として、買収済の敷地を電信局敷地に活用致したところ……」として道路敷として削られて生じる敷地不足分に接続民有地を買収して充当することの承認を求める趣旨の文書を提出していることが認められるし、さらにまた、当時官民を通じ駐留車の動向に神経を使い、その意向にさからうことは事実上容易でないと感ぜられるのが一般の世情であつたことは公知の事実であり、これらの事実を考え合わせると、渡辺課長が被控訴人に対し本件土地の売渡の承諾を求める交渉に際し、通信施設の急速な復旧が公共のために必要であることを説明するだけでなく、駐留軍の意向という点からいつても、仙台逓信局としては急速に電信局の局舎を建設しなければならぬ状況にあるとして、この点を強調し被控訴人の承諾を得ようとしたであろうことは推測するに難くないが、そのことが直ちに接収云々との虚言を弄して売渡しを承諾させようとしたとの推認につながるものではない。

(ハ) <証拠省略>によると、被控訴人は、接収ということになれば「取られ切り」で「元も子もなくなる」(一定の期間借り上げられるといつたようなものではなく、強権的に所有権自体を失わされ、しかも対価が与えられてもきわめて微々たるものにすぎないという趣旨と解される)と考えていたというのであるから、もし渡辺課長が事実被控訴人に対し、任意に売渡の申込に応じないならば接収されることになる旨一申し向けたとすれば(ことに被控訴本人の供述によれば、接収云々の話は第二回目の交渉の際に出たというのであるから)、齢すでに六〇才をこえ思慮分別に富んでいるはすの被控訴人としては、右のような重大な事項については一応即答をさけ、渡辺課長の話について真偽を調査する位のことはするのが自然であろう。<証拠省略>によれば、昭和二一年九月一〇日ごろ渡辺課長から右の話があり、それから、数日後に岡崎市長がたずねて来たというのであるから、その際同市長との間に右の接収のことが話題にされたはずであると考えられる。この点について、原審における被控訴本人の供述(第二回)中には、岡崎市長が来たとき同市長に「進駐軍が接収すると逓信局の方でいうから売渡すことを決めた」と話したという趣旨の供述部分がある。けれども被控訴本人の当審における供述中では、市長が売らねば接収されると言つた旨供述し、そのあとで接収云々は市長が言つたのではないと訂正し、また、かねてからの知合であり市長でもある岡崎氏が逓信局長から依頼されて承諾を求めに来たというので、「あなたも中に立つてなんだからおまかせする」(逓信局の方から仲介を頼まれて来られたのに、自分の方であくまで売渡を拒んだのでは、あなたも立場上苦しいだろうから、おまかせして売ることにしようとの趣旨と解される)と答えた旨の供述部分があり、これと原審および当審証人北川正次の証言(当審第一回ないし第三回)の一部を合わせ考えると、被控訴人は、渡辺課長から逓信局の仮庁舎に呼ばれて交渉を受けた段階では承諾の返事をせず、態度を保留して帰宅したが、その後岡崎市長の来訪を受け、同人からも、仲介者として、本件土地の売疲しをまげて承諾してもらいたい旨懇請されたので、同市長の勧奨に応じ、売渡しを承諾することにしようとの態度を示すにいたつたものと認めるのが相当である(渡辺課長から仮庁舎に呼ばれて交渉を受けた日に売渡しを承諾して帰つたとか、接収するといわれたので売渡しを承諾してきたと市長に話したとかいう趣旨の被控訴本人の前記供述は措信しがたい)。右の事実と、外に岡崎市長との間に、果して逓信局側のいうように接収されるおそれがあるかの点を話題にしたこと、その他そのことについて何らかの調査をした事実を認めるに足る適切な証拠資料も存しないことを併せ考えると、被控訴人が渡辺課長からその主張のような虚偽の事実を申し向けられたとか、それを真実と思い込んだため本件土地の売渡を承諾したとの前示被控訴本人の供述はたやすく措信するわけにはいかない(被控訴人は、本件土地が被控訴人にとつて営業上かけがえのない土地であつたことを強調し、その主張のような錯誤がなければ売渡しを承諾するはずがなかつた旨主張しているが、被控訴人が本件土地について愛着をもつていたにしても、営業上不可欠の土地といえるほどの関係になかつたことについては後述するとおりである)。

(ニ) <証拠省略>によれば、渡辺課長が昭和二一年一二月頃青森市に来た際、当時青森郵便局長であつた築館雄蔵が局舎等の建設用地の入手に苦労しているのをみて、「私はアメリカを使つたから簡単に土地が手に入つた」と語つた旨の証言および記載がある。しかし、かりに渡辺課長がそのようなことを詰したとしても、それをもつて渡辺課長が被控訴人に対し接収云々と申し向けて本件土地の売渡しを承諾させたことを意味するとは限らず、前記認定のような諸般の事情と合わせ考えると、右の証言および記載は接収云々という被控訴人の主張事実を肯認すべき心証を得る資料としては不十分といわざるをえない。

(ホ) 被控訴人は本件土地は被控訴人にとつてかけがえのない土地であり、何としても保有しなかつた土地であるのに、時価の五分の一というような安い価格を一方的にきめられたのにそれをそのまま呑んで売渡しているのであつて、このようなことは、任意に売渡すことを承諾しなければ強権力をもつて接収されるという錯誤がなければとうてい考えられないことであるというしかしながら本件土地の売渡価格が時価より著しく安価であつたとの点が肯認できないことは後に述べるとおりであり、また本件土地が被控訴人にとつて営業上ないしは住居用に不可欠のものであつたともみられないことは次に述べるとおりである。すなわち、<証拠省略>を総合すると、以下の事実が認められる。

被控訴人方は、明治年間に愛知県下から仙台市に移り、同市新伝馬町で酒類販売業を始め、後に清酒の醸造をもやるようになり、東三番丁にも土地を買い求め、事業場敷地を拡張した。昭和二〇年七月右土地上にあつた醸造工場、倉庫、販売営業所、住居等は戦災で焼失したが、その敷地は新伝馬町五一番ないし五四番、東三番丁一四五番、一四六番、四一番の宅地合計一、三一〇坪余に及んでいた。しかし、新伝馬町は繁華な商壱街であり、その道路に面した部分は酒類販売の店舗を設けるに適しているにしても、そのすぐ裏の土地(本件土地を含む)は、土地柄という点では戦災当時すでに醸造工場敷地とするのに、あまり適当な土地ではなくなつていた。ただそこには、東三番丁一四五番宅地内と四一番宅地内とに醸造用の井戸があり、殊に前者の宅地内の井戸水はその水質が醸造用の「もと水」として極めて良好なものであつた。一方、被控訴人は仙台市南染師町に大正年間に買い求めた土地や後に買い入れた土地を合せ、昭和二一年当時二、〇〇〇坪以上の土地を所有し、そこに堀らせてあつた井戸も清酒の醸造に好適の水を出すものであつた。被控訴人は昭和二一年二月頃その所有土地を担保にして株式会社七十七銀行から三五万円を借り入れ、南染師町に醸造場建設の準備をすすめ、同年夏から秋にかけて醸造場、倉庫等を建設し、同年一〇月から始まる酒造年度の事業を始めたのである。なお、昭和二一年九月頃右に挙げた新伝馬町、東三番丁、南染師町の土地のほか、東二番丁に約五〇〇坪その他約二〇〇坪を所有していたが、財産税(財産税法の公布が当時一般に予測されていたことは公知の事実である)の納付のため近い将来どれかの土地を処分するとか、その他の方法により金員入手の途を考えねばならぬ状態になつていた。もつとも、本件土地を含む新伝馬町、東三番丁の土地は親の代から営業および住居の本拠地であつた関係上なみたみならぬ愛着をもつてはいた。しかし、そうかといつて、ここに醸造場を設けることは当時すでに復興都市計画の建前からしても許されない状態にあつたのであるし、右土地を使用するとしても、販売営業所と商品貯蔵用倉庫敷地として使用するということになるが(被控訴人自身もまた大体そのように考えていたが、渡辺課長から買受の交渉を受けた当時営業所や倉庫をどこに置くかをそれほどはつきりきめていたわけでもない)そのためには数百坪に及ぶ土地は必要でなく、逓信局(国)から買受申込のあつた土地を除いても、残地をもつて右の用途に充てることは十分可能であつた(被控訴本人の供述によれば、倉庫としては一〇〇坪もあれば十分であるというのであるから、営業所を合せて二〇〇坪あれば十分ということになる。そして前示甲第一七五号証の一、二、四、七、一〇、一一によれば、新伝馬町に一連の土地として三〇〇坪の土地が残るし、東三番丁に四〇〇坪余の土地が残るわけであり、将来行なわれる土地区画整理による或る程度の減歩を考慮に入れても、前記用途に充てる面積としては十分であつたと認められる)。

なお、<証拠省略>には、新伝馬町の所有土地中新伝馬町の道路に面した部分は倉庫を設けるのに不適当であり、本件土地の買受交渉当時青葉通りがすでに道路の形をなしており、本件土地の方が倉庫を置くのに適当であつたので、被控訴人としては新伝馬町の道路に面した土地に倉庫付の店舗を設けることは考えていなかつたという趣旨の供述部分もある。しかし、前に認定したように仙台市復興都市計画案が確定したのは昭和二一年八月のことであるのみならず、その正式決定をみたのは同年一一月のことであり、当審証人熊谷泰蔵の証言によれば、道路の杭打ちが行なわれたのは同年一一月であることが認められること、被控訴人の従前の所有地が新設の青葉通りに面するような道路計画になつていたことを認めるに足る証拠はなく、かえつて前示<証拠省略>の両図面を対照すると、本件売買の対象とされた従前の土地は(そのうち青葉通り寄りに存する東三番丁一四五番、一四六番の土地についてみても)青葉通りに面していないことが認められ、また前示<証拠省略>添付図面、本件訴状添付図面によれば、従前の東三番丁一四五番、一四六番の土地が青葉通りに接していないことがいつそう明らかなように表示されていること、さらに昭和一二年九月当時特別都市計画法による換地予定地指定案ができていたことを認めるに足る証拠もないこと(仙台市復興都市計画の決定の日時が前記認定のとおりであることや、前示<証拠省略>によれば、特別都市計画法第一〇条の所定の土地区画整理委員会の発足が昭和二二年一一月であつたことが認められることが認められることからみても、昭和二一年九月当時には本件従前の土地に対する換地予定地が将来どのように指定されるかは予測することも困難な状態であつたと推測される)、そのほか被控訴人が本件従前の土地ないしはこれに対する換地が将来青葉通りに面することになると考えていたとすればそれはどういう根拠によるかについてもこれを知りうる資料のないこと、これらの点からみると被控訴本人らの前記供述をそのまま措信採用することはできない。要するに、本件土地が被控訴人の親の代からの営業および生活の本拠であつたことによる被控訴人の愛着の念を別とすれば、披控訴人の主張するように本件土地が営業上不可欠の土地であつたとは考られない。

(ヘ) 原審及び当審証人斎藤三郎は、東三番町一四八番の二宅地九二坪七合二勺と東三番町一四五番宅地七三坪八合、一四六番の一宅地一八坪九合二勺との交換および東三番町一四八番の四宅地の売買に関する仙台逓信局側係員と斎藤蔵之助との交渉に際し、逓信局係員が蔵之助の方でもし右交換、売渡しを承諾しないならば、斎藤側所有の当該土地を接収する旨申し向けたので、蔵之助は仕方なしに承諾したことを蔵之助から聞いているとの趣旨の供述をし、原審証人斎藤ゑいも、右土地交換の交渉について同様の趣旨に受け取れるような証言をしているし、成立に争いのない丙第一号証によれば、斎藤三郎が旧電信局敷地の一部につき譲渡方陳情書を提出するにあたり、前記の事情を記載していることが認められる。しかしながら、前示<証拠省略>によれば、元来斎藤蔵之助所有名義の東三番丁一四七番の一、二、同一四八番の一画の土地は被控訴人の所有していた東三番丁一四五番一四六番の土地とほぼ一直線で境を接し、その南側大半が新設の青葉通りの道路敷にとられることになつていて、その残地はおよそ東西に長細い地形をなすことになつていたことが認められ、右残地の西側部分を一四五番宅地および一四六番宅地(一部)と交換することは、問口と奥行の均衡がとれ、土地の利用上かえつて好都合な地形になるといえる位なのであつて(前示証人斎藤三郎の証言によれば、土地交換の当時には将来の換地のことに考え及んでいなかつたというのであり、また仮に将来指定されるべき換地予定地のことを考えたとしイ、も、右のような従前土地の交換によつて格別不利益になることは考えられない)、交換を頑強に拒否しなければならぬ理由は全くなかつたはずなのである(原審および当審証人渋谷二郎の証言によれば、国の側で仙台市側の意見を参考にし、斎藤との間では売買でなく土地交換の方針で臨んだのも、これによつて局舎敷地の形をととのえることができると同時に、斎藤側にも右に述べたように不利益を与えることにならないという理由によるものであつたことが明らかである)。また鉄塔等敷地たるべき東三番丁一四八番の四の土地売買についてみても、<証拠省略>を総合すれば、一四八番の二宅地に対する換地予定地として指定される地域について逓信局側に勘違いがあつたにしても、格別悪意なくして鉄塔等を設置したことに端を発したものであること、右土地売買における価格(坪当り一万四、〇〇〇円)も斎藤側の希望する価格で決定されたことが認められ、これらの事実と前示関谷証人のその余の証言を総合すれば、前示斎藤両証人の証言および丙第一号証の記載はたやすく措信しがたく、前記土地の交換、売買の交渉に際し、逓信局側の係員が逓信局側の申出に応じなければ接収されることになるというようなことを申し向けないしはそのような態度を示して承諾を得た事実はなかつたものと認められるのである。

(3)  以上を総合して考えると、結局前示の被控訴本人の供述、証人高木善次郎、北川正次の証言中接収云々に関する部分はたやすく措信するわけにいかず、<証拠省略>もそのまま被控訴人の前記主張事実を認める資料とするに足りないのであつて、要するに被控訴人が渡辺課長から申出に応じなければ接収されることになるといわれ、ないしはそのような態度を示され、それを真実と誤信ししために本件土地の売渡しを承諾したものであるとの被控訴人の主張事実については、これを肯認すべき心証をえるに足る措信すべき証拠がないことに帰するものといわざるをえない。のみならず、以上の認定事実を総合すれば、他の第三者が被控訴人の立場にあつたものとして考えた場合、被控訴人の主張するような錯誤がなかつたとすれば、通常誰しも本件土地の売渡しを承諾するようなことはしなかつたであろうといえるような事情のもとにあつたと認めることもまた困難というべきである。それゆえ、被控訴人の前記(一)の主張はこれを採用することができない。

(二)  被控訴人はまた、本件売買に際し、前記のとおり渡辺営繕課長および岡崎仙台市長が、「電信局は応急の仮建築だから、本建築になり本件土地が不要になればこれを返す」と述べたのを信じ、かつ、それが動機となつて本件土地の売渡しを承諾したのであるが、仮に国と被控訴人との間に再売買の予約が成立していないとすれば、認識と事実との間に不一致がある、と主張する。

(1)  原審における被控訴本人(第一回)供述中に、 「渡辺課長から仮庁舎へ呼ばれたとき、同課長は、売渡しを求めている土地(本件土地)に建てる局舎を将来本建築にすることになつて本件土地が不要になればお返しすることができるだろう。返すことを約束するわけにはいかないが、将来そういうことになつた場合には十分骨を折る」といつたという供述部分のあることは前述したが、なお被控訴人の右供述中には、東三番丁一四五番の土地には醸造用の非常によい水の出る井戸があるので、本件土地の売渡しを承諾した後渡辺課長を訪ね、右の土地だけは売渡す土地から除いてもらいたいと申出たが、局舎敷地が不要になれば全部戻すことになるといわれた、との供述部分もある。また、原審における被控訴本人尋問(第二回)の際、被控訴人は、渡辺課長が本建築になればここは不要になるだろうし、そのときはあなたの方に返るはずだろうといい、自分がそのことは記録に残るかと確かめたところ、むろんそれは記録に残ると答えた旨供述し、当審における被控訴人本人尋問に際しては、右交渉の際自分は買戻についての契約条項を入れるように申し入れたが、渡辺課長は役所の手続ないしは規則上それはできないと答えた旨の供述部分があり、さらに前示<証拠省略>にも、「本建築になれば不要となるから返すように考えるとの渡辺課長の話のあつたその時期を待つていたのである」との趣旨の記載がある。なお、原審および当審証人高木善治郎の証言中にも「今度建てるのは仮建築だから、本建築になり本件土地が不要になれば必ず返す」との話があり、それを条件に被控訴人は売渡しを承諾したのである旨の供述部分がある。

しかしながら、旧電信局の局舎が、その建設当初から、将来他の場所に本建築の局舎を建ててそれに移転するという予定のものに建築されたものでなかつたこと、また建築された局舎自体も当時としては本建築といつて差支えない程度のものであつたことは前に認定したとおりであり、したがつて渡辺課長において(旧)電信局々舎が将来他の場所に改築移転されることを前提として被控訴人主張のごとく、その場合には必ず本件土地を被控訴人に返すというようなことを言明したとか、あるいは将来他に移築する場合には必ず元の所有者である被控訴人に売り渡すべきものとして、そのことを記録上明らかにしておくことを約したというようなことはにわかに信じがたいところである。ただ少くとも被控訴人が本件土地に愛着の念をもち、営業上の関係からも、自己の所有地として保有することを希望していたのを、渡辺課長としては十分承知のうえで、なお逓信局側の事情を訴え、まげて売渡しを承諾してほしいと要求したものであることは、前示被控訴本人の供述からも認めるにかたくないところである。そうだとすれば、渡辺課長において、もしも将来事情の変更により電信局が改築等のため他に移転し、本件土地が不要になるというような事態が生じた場合には、その売払に際し旧所有者側において買受けを希望すれば、十分考慮されて然るべきであろうし、自分としてもそのような場合にはできるだけのことをするつもりである旨を述べたとしても決して不自然でなく、原審における被控訴本人の供述(第一回)の趣旨をそのように理解すれば、それは措信しえないものではないのである。そうだとすれば、被控訴人において、将来再び本件土地が自己の所有に戻る可能性も相当にあるとの期待を抱いたとしてもなんら不合理とはいえないわけである。しかし、それ以上に、建築を予定されている局舎が仮建築にちがいないからか遠らずして本建築に改築されるし、その場合には必ず本件土地が被控訴人に売戻されるべきものであると被控訴人が考えたとしても、ひつきようそれは被控訴人のいわば主観的な期待の域を出ないものというべきである。

(2)  当審における被控訴本人の供述中には、岡崎仙台市長が来たとき「あの土地(本件土地)の問題について逓信局長から頼まれてきたが、進駐軍からの強い要求で逓信局としてはあの土地に電信局を建てなければならぬことになつているとのことなので、ぜひ売渡を承諾してやつてくれ。仮建築だから、本建築になつたら返すということだから」との話があつたので、市長の立場をも考え、おまかせすると返事した旨の供述部分がある。原審および当審証人高木善治郎、北川正次の証言中にも、岡崎市長が本件土地のことについて被控訴人方をたずねた際話合の場に同席したとして、前記被控訴本人の供述に照応する供述をしている部分がある。しかし、渡辺課長が被控訴人に対し、建築を予定している局舎は仮建築だから本建築になばれ必ず返すと言明したということがにわかに信用しがたいのと同様の理由によつて、浦島仙台逓信局長が岡崎市長に右と同様の趣旨のことをいつてあつ旋を頼んだということも信用しがたいところであり、岡崎市長が被控訴人に対して、被控訴本人の供述しているようなことを申し向けたということもまた、そのまま真実として受取ることはできない。たとえ岡崎市長が、将来局舎改築等の理由で他に移転するような場合には戻してもらえるだろうという被控訴人の言葉に合槌を打ち、そのときは自分も尽力しようといつたにしても(原審における被控訴本人の第一、二回供述はこの趣旨に解される)、それは同市長が将来買戻しうる可能性もあることを説き、また仲介者しとての誠意を示す言葉として述べたものと理解すべきである。

なお、斎藤関係の土地の交換および売買に関し、前記証人斎藤三郎の証言中には、もし将来電信局敷地が更地になつた場合には、元の所有者である斎藤の方へ売戻すとの話があつたので、祖父斎藤蔵之助は交換、売買を承諾したものであるという供述部分がある。しかし、これも右土地の交換、売買に関し前に第二項で認定した事実および当容証人関谷養吉の証言と対比し、にわかに措信しがたい。

(3)  以上述べたとおりであつて、結局、被控訴人が「電信局は応急の仮建築だから、本建築になり本件土地が不要になればこれを返す」との渡辺課長および岡崎市長の言葉を信じ、それゆえにこそ本件土地の売渡しを承諾したとの事実については、これを肯認するに足る適切な証拠がないものというほかはない。そして、被控訴人がそれほど遠くない将来に本件土地を買い戻す機会もありうるとの期待をもつて本件土地の売渡しを承諾したとしても、それだけで被控訴人主張のような趣旨での錯誤があつたものとはいえず、しかもまた、前に認定した売渡承諾当時における被控訴人側の事情や後述する売買価格の点等を総合すれば、本件土地を将来買戻すこともできると考えなげれば何人も売渡しを承諾しなかつたであろうといえるような事情が存したものと認めがたいのであつて、いずれにせよ被控訴人の右の点に関する錯誤による売買無効の主張はこれを採用することができない。

(三)  被控訴人はさらに、国は被控訴人から本件土地を仙台電信局の建設用敷地として使用するということで買受けたが、事実は前記のとおりそのうち第二土地は斎藤との交換の対象に供し、電信局の建物敷地としては使用しない、と主張する。

国が被控訴人から本件土地を仙台電信局の局舎建設用敷地に使用するということで買受けたが、第二土地を間もなく斎藤真所有の土地との交換の対象に供したことは前示のとおりであり、右土地を直接電信局の敷地として使用していないことは弁論の全趣旨に徴し明らかである。ところで、国が被控訴人から買受けた東三番丁一四五番、同一四六番(一部)と斎藤頁所有にかかる同所一四八番の二とを交換した事情については前に説示したとおりであり、この交換によつて斎藤側の土地が利用上好都合な地形になると同時に電信局々舎建設敷地の形状もその建設に好都合な地と形なつたのである。すなわち逓信局は第二土地を直接電信局敷地としては使用しなかつたのであるが、右土地は同敷地を取得するためには必要不可欠な土地であつて、電信局敷地として使用されたのと同一の機能を果たしたものとみられ、しかも本件売買にあたり本件土地全部を直接電信局敷地として使用し、これを右のごとき目的のために転用することをいつさい禁ずる旨の特約の存在したことの主張立証のない本件においては、逓信局が右のごとき措置をとつたとしても、これをもつて要素の錯誤を来す事由とみることはできない。渡辺課長ら逓信局側担当者が本件土地買収にあたり、斎藤方の土地と交換する予定であるのを話さなかつたことが、交渉担当者のやり方として妥当であつたかどうかという点については問題の余地があるかも知れないけれども、そのことと要素の錯誤の成否とは別個の問題である。

(四)  以上説示したとおりで、被控訴人の要系の錯誤の主張は失当というほかはない。

四、公序良俗違反の主張について

(一)  被控訴人は、本件売買の交渉が行なわれた当時において、一般国民が占領軍に絶対的な威力を感じていたという事情を背景にして、渡辺課長が被控訴人に対し、「本件土地の売渡しをあくまで拒むならば進駐軍が接収することになる」と申し向け、被控訴人もそれを真美と信じて売渡しを承諾したものであり、このことは、被控訴人が取引行為の取捨選択を自由になしうる判断能力をはく奪された窮迫状態にあり、どうしても本件土地の売却を承諾せざるを得ない立場に立たされて売渡しを承諾したものというべきである、と主張する。

しかしながら、渡辺課長が被控訴人に対しその主張のような趣旨のことを申し向けた事実が認められないことは前に説示したとおりである。渡辺課長が被控訴人に対し電信局が公共のための施設であるばかりでなく、占領軍からもこれを早急に復旧するよう強く勧告されているので、まげて売渡しを承諾してもらいたい旨申し向けたとしても(渡辺課長がこの程度のことを申し向けて被控訴人に売渡しの承諾を求めたであろうことは、前示認定事実にてらし容易に推測できるところである)、そしてまたそのような場合に、彼控訴人において、公共施設というだけでなく、駐留軍の勧告ないしは意向を背景にしての交渉であるということから、通常の売買取引の交渉におけるのとは異つた心理的圧力を感じ、それほど簡単に右申出を拒絶するわけにも行くまいというような心理的制約を受けたであろうことは、これまたみやすい道理であるといわねばならない。しかし、そうだからといつて、それだけのことで諾否の自由が甚だしく制限され、事実上逓信局からの申出を承諾するよりほか仕方のない状態にあつたとみるのは相当でない。そしてまた、前に認定したように被控訴人が売渡しの申出に応ずる意向を示すにいたつたのは、被控訴人が渡辺課長に呼ばれて交渉を受けたときでなく、その後岡崎市長のあつ旋があつてからのことであるし、被控訴人の側で本件土地が営業その他の関係で絶対不可欠のものであつたという事情もなく、また後述するように時価よりも甚しく低廉な価格で売り渡しを求めたという、ような事情も認められないのであるから、いずれにせよ渡辺課長において被控訴人がいわば窮迫状態にあるのに乗じ不当に圧力をかけて売渡しを承諾させた旨の被控訴人の主張は、これを採用することができない。

(二)  被控訴人はまた、本件土地の売却代金として時価の五分の一程度の金員を交付されたにとどまり、しかも右売渡しによつて直接間接に莫大な損害を蒙つたのであつて、被控訴人の給付と国の給付とは著しく均衡を失しており、被控訴人は過大な給付を余儀なくされたと主張する。

(1)  まず本件土地の売買価格が決定された経過についてみるに、前に第一項で認定した事実および前示<証拠省略>によると、昭和二一年九月中、仙台逓信局では土地買入れの際には主として官公署等の評価意見を徴するという従前の例に従い、仙台市長および仙台税務署。長に対して本件土地の適正な売買価額を照会した(この照会際にしては、渋谷係長が事前に市役所および税務著に赴き、口頭でその趣旨を伝えて評価意見を求め、後に書面による照会をし、回答書を徴した)。仙台市長からは、「坪あたり七〇〇円を相当と認めるが、すでに復興計画にもとづき五〇米突幹線街路が通ることになり、土地所有者は値上りを見越しているので、時価八〇〇円を相当と思考する」旨、仙台税務署長からは、新伝馬町の土地については坪あたり四〇〇円、東三番丁の土地については坪あたり八〇円ないし九六円相当である旨、それぞれ同年同月二八日付の文書で回答があり、これら回答のほか本件土地の売買につき格別の熱意をもつてあつ旋の労をとつた岡崎市長からのなるべく高価に買取るように取計つてもらいたいとの個人的助言などを参考にして検討した結果、第一土地の代金二〇万五、〇一九円(坪あたり八〇〇円)、第二土地の代金を五万〇、九九六円(坪あたり五五〇円)で買受ける旨を決めたことが認められる。

ところで、右売買代金が当時の時価として相当であつたか否かを現段階で判断することは極めて困難であり、とりわけ売買の対象となる土地の立地条件、面積、用途、需給関係、縁故の有無など諸般の事情によつて多大な影響を受けるので形式的画一的に認定することはできない。すなわち、被控訴人が本件土地の売渡しを書面をもつて承諾した昭和二一年一〇月一二日当時は、終戦の日からまだ一年余を経過しているにすぎず、戦災を受けた者をはじめ多くの国民が衣食住のうち食と衣に追われるという生活状態から脱し切れず、また一般には金融緊急措置令にもとづくいわゆる新円を制限された限度で使用しうる生活が行なわれていた時期であること、右のような当裁判所に顕著な一般社会状勢のほか、本件土地は戦前から繁華な商店街を形成していた新伝馬町五二番ないし五四番の土地のうち表通りに面しない裏側の一部と、奇伝馬町通りと異なりこれと交差する静かな住宅街といつた関係にある束三番丁通りに面した東三番丁一四五番、その裏側に接続し道路に全然面しない同一四六番の土地であること、昭和二一年八月に公表された仙台市復興都市計画案により青葉通りを仙台駅前から東二番丁にいたるまで五〇メートル幅のものとすることを含む道路計画が明らかにされたが、同年一〇月ごろにはまだ実際に市民全般に周知されていたとまではいえない状態であつたこと、右計画によれば本件土地は青葉通りには面していなかつたこと、青葉通りは後にビル街として発展することになつたが、同年一〇月ごろにはまだ罹災の跡も生々しく、一面の焼野原であつて、焼残りの土蔵や罹災家屋の土台石が点在し、道路の区画すら明らかにされない状態であつて、新伝馬町通りが東一番丁通りなどと同じく商店街としてすでに復興の道を歩んでいるのとは異つていたこと、青葉通りが将来発展するにしても、その程度や速度は仙台市における一般的な経済力の回復にまつところが多く、また道路幅との関係でこれに面する土地は小売商店用として使用するにはあまり需要の期待されないものであつたこと、その後青葉通りの道路としての区画も明確にされ、地上物件が逐次除却整理され、次第に道路としての体裁もそなわり、都市としての復興が進むに伴い、沿道土地の地価の上昇以上に日を逐つて高まり、ことに昭和三〇年代に入つてから東京の大資本が進出しビルが次第に建ち並ぶようになつてから、地価の飛躍的高騰をみるにいたつたものであることが、前示認定の事実のほか原審および当審証人藤田貞蔵、原審証人北村栄吉の証言の一部、当審証人八巻芳夫、吉村克彦、鈴木禎三郎の証言ならびに弁論の全趣旨によつて認められる。以上の諸事情が、本件土地の売貢価格が果たして相当であつたか否かを判断するにあたつて当然考慮されねばならない、そして、右のような事情のもとにおいては、売買の目的、売買当事者の置かれている地位、環境、土地の将来性についての当事者の見通し、その他売買当事者に関する諸般の事情によつて取引価格の上下幅はかなり大きなものとなりうる情勢にあつたものというべきである。なお後に認定する本件土地売買契約成立当時の前後における全国市街地価格指数の推移も一応の参考となしうるのではあるが、現在または本訴提起後における本件土地の換地予定地の価格を評定し、それらの時点における右市街地価格指数に照らし、これから逆算して昭和二一年一〇月当時における時価を定め、これとの対比において本件土地の売買価格が時価相当額であつたか否かを判定しようとしても、それだけでは適切妥当な結論を得ることはとうてい困難であるといわねばならない。

(2)  そこで、拠るべき鑑定意見の存しない本件において、次善の方法としては、本件売買が事実上決定された昭和二一年一〇月一二日を基準時とし、その前後における比較的条件の類似した土地の売買における価額を求めてこれと対比し、右代金が相当額であつたかを考察するのが適当な方法であると考える。その意味で以下において、主として復興計画の確定案の内容が公表され、一般市民がこれを知りうるようにたつたとみられる昭利二一年八月より同二二年七月までの取引を考察の対象とすることにする。

(イ) <証拠省略>によると、仙台市大町五丁目一五番宅地九七坪七合二勺を昭和二一年八月二七日ごろ佐藤平助が菊地長太郎に対し代金五万一、C〇C円(坪あたり五二二円)で売買していること、(ロ)<証拠省略>によると、仙台市東一番丁八二番宅地九二二坪余を昭和二一年一二月一五日一力次郎が平塚長蔵に対し代金一一〇万円(坪あたり一、一九三円)で、売買していること、(ハ)<証拠省略>によると、仙台市国分町一四三番宅地一七九坪一合二勺を昭和二一年八月二九日東北不動産株式会社が浅野衛に対し代金六万円(坪あたり三三六円)で売買していること、(ニ)<証拠省略>によると、仙台市東三番丁一四一番の一ないし三、一四二番の一、二、以上五筆の宅地合計三〇三坪二合一勺を昭和二二年二月一五日中名生政之が桜井政次郎に対し代金一八万円(坪あたり五九四円)で売渡し、その頃桜井からさらに奈良場為治に売渡され、同年四月一〇日中名生から直接奈良場への所有権移転登記を経由したこと、(ホ)<証拠省略>によると、仙台市東五番丁二六番、二七番、三〇番の一、二、南町通り一七番の一、以上五筆の宅地合計九三七坪四合七勺を昭和二二年三月一七日七十七銀行が杉村多利治に対し代金三一万二、〇〇〇円(坪あたり三三三円)でそれぞれ売買していることが認められる。なお以上の売買取引事例のうち、(ロ)の売買につき、当審証人登米孝の証言によれば、売主の一力次郎は右売買当時財産税として納付すべき八〇万円の入手を第一次的な目的として前記土地を売り渡したものであることが認められ、当審証人鈴木禎三郎、安済良一の証言をあわせ考えると、一力と平塚との間の右売買価格は事情ないし交渉のいかんによつてはさらに若干高くすることが可能であつたとみる余地がないわけではないし、また右鈴木証人の証言中に、後日一力が「自分も銀行に土地を売りなかつた」と述べた旨の供述部分があるが、後に被控訴人と株式会社住友銀行との間の新伝馬町五四番の五の土地の売買に関して認定するところと対比すると、一力は住友銀行の買受価格たる坪あたり二、〇〇〇円と比較し一力の前記売渡価格が安かつたと述べたものとみられるから、これをもつて直ちに一力の売渡価格が時価相当額より著しく安かつたとの結論を出すことは、一力の側における前記事情を考慮するにしても、なお早計であるといわねばならない。また前記(ホ)の売買につき、当審証人岡崎昭の証言によると、前記土地の売買は七十七銀行が貸付元利金を回収するため担保物件の処分として行なつたものであることが認められ、相当価格よりも安く処分したのではないかとの疑いを容れる余地がないでもないが、右証人の証言の全趣旨に徴すれば、少くとも相当価格より甚だしく安価に処分したと認めることもできない。

もつとも<証拠省略>によると、仙台市新伝馬町五四番の五宅地五八坪七合八勺を昭和二二年一月二四日被控訴人が住友銀行に対し代金一一万七、五八〇円(坪あたり二、〇〇〇円)で、同町五五番宅地七七坪七勺を右同日米満が右銀行に対し代金一五万四、一四〇円(坪あたり二、〇〇〇円)でそれぞれ売買していることが認められるが、<証拠省略>に徴すると、右売買代金額については、右銀行側では一応調査のうえ当初坪あたり一、〇〇〇円ないし一、二〇〇円程度が相当価格であると考えていたところ、仙台市内に支店開設を急ぐあまり、売買交渉の過程で被控訴人の強引な価格引上げの要望に屈しこれを容れたものであることが認められるから、右最終の売買代金をもつて当時における一般取引の基準とすることは困難であるといわねばならない。

以上認定の数個の事例における土地売買代金額と本件土地の売買代金額を比較検討するに、後に認定する全国市街地価格指数の推移の傾向に照らしても、<証拠省略>によつて、おおよその傾向が知られる仙台市における地価の地域差、その推移なと諸般の事情を考慮しても、本件土地の売買当時におけるその代金価額が他の同時期における取引に比し特に安いものであつたと認めることは困難であり、むしろ昭和二一年一〇月一二日当時における本件土地の売買代金としては相当額といえる範囲内にあつたか、少なくともこれに近いものであつたかと認めるのが相当である。

(3)  なお、前に昭和二一年八月より昭和二二年七月までの売買事例として挙げたもののほか、証人の証言等に右期間内に行なわれた売買であるとの供述部分の存するものがあるので、これらについて検討する。

(イ) 原審および当審証人松沢録太郎の証言中には、同人が昭和二二年四、五月ごろ新伝馬町三六番宅地七二坪七合二勺を佐々木壬二から代金約二六万円(坪あたり約三、六〇〇円)で買受けた旨の供述部分があり、当裁判所が真正に成立したものと認める<証拠省略>にも同趣旨の記載がある。しかし、<証拠省略>によれば、右売買については昭和二二年一一月七日に同日付売買を原因として佐々木からの所有権移転登記が経由されている事実が認められると同時に、同日右佐々木を債権者とし債権額九万七、五〇〇円(同年一二月より毎月二万円ずつ分割し、最終月は一万七、五〇〇円を支払う旨の月賦弁済の約)の債権担保のため前記 土地に抵当権設定登記を経由していることも認められる。これを前記松沢証人の証言内容を対照すると、同証言中売買代金の支払に関する部分は真実と相違するように思われ、ひいては前記売買日時に関する証言もそのまま信用しうるかとうかの多大の疑問が残るのであるし、また、<証拠省略>によれば、前記土地は新伝馬町の表通りに面していることが認められることに、<証拠省略>によつて認められる昭和二一年九月と昭和二二年九月の全国市街地価格指数の推移、すなわち財団法人日本不動産研究所作成の「全国市街地価格指数」の第五表・戦前基準全国市衝地価格推移指数表によると、昭和一一年九月を一〇〇とするときは、昭和二一年九月の全国市街地価格指数が五〇一であるのに対して、同二二年九月のそれは一、三六四であつて、その上昇率は約二・七倍であり、同第六表・戦前基準地域別全国市街地価格推移指数表によると、同じく昭和一一年九月を一〇〇とするときは、最高価格地において、昭和二一年九月のそれが三二九であるのに対して、同二二年九月のそれは八二一であつて、その上昇率は約二・五倍、商業地において、昭和二一年九月のそれが四四三であるのに対し、同二二年九月のそれは一、二三八であつて、その上昇率は約二・八倍であることを併せ考えると、<証拠省略>の記載はいまだ本件土地の売買代金額が相当価格を著しく下廻るものとすべき適切な証拠資料とするに足りないというべきである。

(ロ) 当審証人鈴木要祐の言証中には、同人が昭和二一年五、六月ごろ新伝馬町五一番宅地のうち六〇坪を代金九万円(坪あたり一、五〇〇円)で買受けた旨の供述部分がある。しかし、これについてもその裏づけとなる資料は提出されておらず、なお原審における被控訴本人の供述中には、昭和二一年九月に渡辺営繕課長から本件土地の売買の交渉を受けた際、売買の値段については自分はよくわからないと述べた旨の供述部分がある(わずか三、四か月前に前記鈴木との間で売買契約をしたのが事実だとすると、右の供述はかなり不自然であるといわざるをえない)ことを併せ考えると、前示鈴木証人の右売買日時に関する証言は直ちに措信することができない。そしてまた同証人の証言によれば、代金の支払は一時でなく、一、二年かかつて支払つたというのであり、しかも同証言および弁論の全趣旨によれば、右売買の対象地は新伝馬町の表通りに面していることが認められるのであつて、以上を総合すると、右土地の売買代金が坪あたり一、五〇〇円の割合であつたとしても、それをもつて本件土地の売買代金額が著しく安価なものであつたという裏づけ資料とするわけにはいかない。

(ハ) さらに昭和二三年に入つてからの分ではあるが、被控訴人において本件土地の売買代金額が不当に安価であつたことを認めるべき資料としてあげる内田佐一郎が内田きみ名義で買受けた東三番丁四一番の一宅地二一三坪四合および同番の二宅地二一三坪三合九勺(本件土地のうち東三番丁四一番宅地と三番丁通りをへだてた向い側に存する土地)の売買代金について触れておくことにする。<証拠省略>を総合すると、被控訴人は昭和二三年一月二〇日内田佐一郎に対し前記土地を売渡し、昭和二五年一〇月一四日内田きみを買受名義人として所有権移転登記を経由したことが認められる<証拠省略>によれば、同書証に記載されている土地は従前の土地で、実際は内田の方で現に使用している約三〇〇坪すなわち換地予定地に相当するところを売買の対象地としたものと認められる)。そして、被控訴人は、右土地売買代金は一五〇万円(坪あたり五、〇〇〇円)であつた旨主張しており、原審における被控訴本人の供述(第一回)、原審および当審証人内田佐一郎、高木善治郎の証言中には、右主張に照応し<証拠省略>に代金三、〇〇〇円とあるのは税金対策上ないしは登記申請用に実際より安く表示したものであるとの趣旨の部分がある。しかし、前記<証拠省略>を対照すると、<証拠省略>は登記申請用のものでないことは明らかであり、他に実際の代金額を表示した売買契約書ないしは代金領収証等は全然提出されていないところをみると、前記証言、供述はそのまま信用しうるや否やにつきやはり疑問が残るわけである。なお、前示被控訴本人の供述、証人高木善治郎、内田佐一郎の証言中には、内田が前記買受土地に建物を建築した場合(当初は旅館を建築する予定ということであつたが、現実には仙都劇場という映画館が建てられた)、その一部を被控訴人に営業所として使わせる約束があつたので、実際は坪あたり七、八千円の価値があつたのを坪五、〇〇〇円で売買契約をした旨の供述部分があるが、内田がその建築した映画館の一部を被控訴人に使用させたことも、これに対し被控訴人がその契約不履行の責任を追及したことも、いずれもこれを認めるに足る証拠はなく、右のような約定を記載した書面の作成せられた形跡もないことからみると、右の証言、供述もまたにわかに措信しがたいところである。かりに被控訴人主張のように坪あたり五、〇〇〇円の約定であつたとしてみても、当審における検証の結果その他弁論の全趣旨によれば、内田が現に使用している土地すなわち前記売買契約の事実上の対象地は青葉通りと東三番丁通りに面した角地であることが認められ、また昭和二三年一月当時にはすでに青葉通りの区、画も明確となり、道路の整地も逐次行なわれようとする段階にあつたことは当審証人八巻芳夫、関山幸作、熊谷泰蔵の証一、一古によつて認められること、土地買受の目的が旅館ないし映画館経営のためであつたことに、前示<証拠省略>によつて認められる全国市街価格指数の推移、すなわち前記「全国市街地価格指数」の第五表・戦前基準全国市街地価格推移指数表によると、昭和一一年九月を一〇〇とするときは、昭和二一年九月の全国市街地価格指数が五〇一であるのに対し、同二三年三月のそれは二、五〇七であつて、その上昇率は五倍余であり、同第六表・戦前基準地域別全国市街地価格推移指数表によると、同じく昭和一一年九月を一〇〇とするときは、最高価格地において、昭和二一年九月のそれが三二九であるのに対して、同二三年三月のそれは一、六三二であつて、その上昇率は約五倍であり、商業地において、昭和二一年九月のそれが四四三であるのに対し、同二三年三月のそれは二、四八三であつて、その上昇率は五・六倍余であることをも併せ考えて本件土地の売買代金額と対比するときは、前記内田の買受価格から推して本件土地の売買代金額が不当に安く定められたとすることもまた困難であるというべきである。

(4)  その他、本件土地の売買代金額が相当であつたか否かの点に関係のある幾つかの証拠資料が存するけれども、前記認定を妨げ、右代金額が被控訴人の主張するように不当に低廉であつたことを肯認するに足る適切なものは存しない。

(5)  さらに被控訴人は、本件土地の売買代金の決定はいつさい逓信局に任せ、同局によつて一方的に決定されたものであると主張するので、これを検討する。前記認定の売買代金が逓信局側によつて市当局の評価額等を参酌してきめた額によつていることは前に認定したとおりであるが、その代金額が格別不当というべきほどの低額でないこと、また浦島逓信局長が被控訴人を同人方に訪ねた際、逓信局側できめた代金額による売渡しの承諾を得た経過についても先に認定したとおりである。右代金額の決定について何回も折衝を重ねたというような事情は認められないけれども、前に認定した代金額決定の経過、そして被控訴人も最終的にはこれを承諾した事実をもあわせ考えると、それはいまだもつて本件売買契約に被控訴人主張のような趣旨における瑕疵の存することの認定資料とするに足りないものというべきである。そのほか被控訴人は、本件土地を売却することによつて小売販売利益など莫大な損害を蒙つたというのであるが、前示のとおり被控訴人が積極的に本件土地の売渡しを希望したのではなかつたとはいえ、おおよそ時価相当額ないしはそれに近い額で、しかも売買契約の成立につき格別報疵の認めがたい状態のもとで右土地を売渡した以上、たとえ被控訴人に所論のごとき逸失利益があつたとしても、これをもつて国ないし控訴人公社の責に帰しえないのはもとよりであり、したがつて本件売買における取引当事者相互問の給付が著しく均衡を失し、被控訴人が過大な反対給付を余儀なくされたということはできない。

(三)  してみれば、被控訴人の公序良俗違反の主張も失当たるを免れない。

五、詐欺の主張について

被控訴人は、本件売買の交渉に際して、渡辺営繕課長は被控訴人に対し、当時進駐軍の命令による接収は日本政府の用務のためには行なわれなかつたのに、あたかも本件土地の売渡しに応じなければ接収されるかのような虚偽の真実を申し向け、また電信局が本建築となり本件土地が不要になつても返還しないにもかかわらず、同課長および岡崎仙台市長は、あたかも電信局が本建築になり本件土地が不要になれば返還するかのように申し向けて、被控訴人を欺罔しその旨誤信させて錯誤におとしいれ本件土地の売却を承諾する旨の意思表示をさせたと主張する。

渡辺課長および岡崎市長が本件売買交渉に際し被控訴人に対し所論のごとき虚偽の事実を申し向けたとは認めがたいことは前に説示したところである。してみれば、渡辺課長および岡崎市長が右のごとき虚偽の事実を申し向けたことを前提とする被控訴人の詐欺の主張も採用の限りでない。

六、公法上の返還請求権について

被控訴人は、土地収用法第一〇六条の規定は単に同法にもとづく土地収用の場合に限定することなく、事実上国の事業目的のために売買等の形式で取得された場合であつても、それが強権的な色彩を具備するときは準用があり、公法上の返還請求権が発生すると解すべきところ、本件売買における形式は別として、売買締結の重要な因子となつたものは強権的なものであつて実質は土地収用というべきであるから、被控訴人は返還請求権を行使する、と主張する。土地収用法第一〇六条の規定は、同法にもとづく適法な土地収用がなされた場合に、右規定の要件を具備するとき収用地の現所有者に対し被収用者その他の買受権者が同条所定の買受権を有することを定めるものである。所論のごとく事実上国の事業目的のため土地所有権が売買等の形式で取得された場合でもあつても、実質的にみて公権力の行使とみるのが相当である場合(被控訴人のいう強権的色彩を具備するものというのが具体的にいかなるものを指すのか必ずしも明確ではない)に前記土地収用法の規定を類推しうるか否かは暫く別として、本件売買が実質的にみて国の公権力行使と同視しうるようなものでなかつたことは、さきに本件売買契約締結の経緯その他について認定したところによつて明らかである。そうだとすれば、本件につき土地収用法第一〇六条の規定が準用され、公法上の返還請求権が発生したとする被控訴人の主張もまた失当というほかはない。

七、以上の次第で、被控訴人の主張はいずれも採用することができず、本訴請求は理由がないのでこれを棄却すべく、被控訴人の右請求を認容した原判決は失当であるため民事訴訟法第三八六条に則りこれを取り消し、訴訟費用の負担につき同法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 多田貞治 上野正秋 岡垣学)

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